大判例

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最高裁判所第二小法廷 平成3年(オ)1534号 判決

上告人

岩村文雄

外一九名

右二〇名訴訟代理人弁護士

大倉忠夫

武下人志

小林章一

乾俊彦

根岸義道

被上告人

右代表者法務大臣

長尾立子

被上告人

神奈川県

右代表者知事

岡崎洋

右両名指定代理人

櫻庭倫

被上告人

横須賀市

右代表者市長

沢田秀男

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人大倉忠夫、同武下人志、同小林章一、同乾俊彦、同根岸義道の上告理由について

一  本件は、上告人らが、大雨により神奈川県横須賀市内を流れる平作川、吉井川並びに原判示甲水路、同乙水路及び同丙水路から水があふれ出して床上浸水の被害を被ったが、これは右各河川及び水路の管理について瑕疵があったためであると主張して、平作川を管理する被上告人国、その管理費用を負担する同神奈川県並びにその余の河川及び水路を管理する同横須賀市に対して、国家賠償法二条、三条に基づき、損害賠償を求めるものである。

二  吉井川の管理の瑕疵について

1  国家賠償法二条一項にいう営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いて他人に危害を及ぼす危険性のある状態をいい、このような瑕疵の存在については、当該営造物の構造、用法、場所的環境、利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的、個別的に判断すべきものである。ところで、一般に河川は、管理の開始当初から右の安全性を有しているものではなく、洪水等の自然的原因による災害をもたらす可能性を内包し、治水事業を経て逐次その安全性を高めていくことが予定されているものであるところ、治水事業については、議会が国民生活上の他の諸要求との調整を図りつつ配分を決定した予算の下で必要性、緊急性の高いものから逐次改修を実施していくほかはないという財政的制約、長い工期を要するという時間的制約、流域全体について総合的に調査検討の上、緊急に改修を要する箇所から段階的に、また下流から上流に向けて行うことを要するなどの技術的制約、流域の開発等による雨水の流出機構の変化や治水用地の取得難などの社会的制約が内在するものであるから、河川が通常予測し得る水害を未然に防止するに足りる安全性を備えるに至っていないとしても、そのことから直ちに河川の管理について瑕疵があるとすることはできず、河川の備えるべき安全性としては、原則として、右諸制約の下で施行されてきた治水事業の過程における改修、整備の段階に対応する安全性をもって足りるものとせざるを得ない。そして、河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等の諸般の事情を総合的に考慮し、右諸制約の下での同種同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであって(最高裁昭和五三年(オ)第四九二号、第四九三号、第四九四号同五九年一月二六日第一小法廷判決・民集三八巻二号五三頁、最高裁昭和六三年(オ)第七九一号平成二年一二月一三日第一小法廷判決・民集四四巻九号一一八六頁参照)、このことは、河川法の適用のないいわゆる普通河川の管理についての瑕疵の有無の判断にも当てはまるものというべきである。けだし、いわゆる普通河川についても、河川の管理についての前記の特質及び諸制約が存することは、異なるところがないからである。

2  原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

(一)  被上告人横須賀市は、公の営造物である吉井川を管理する者である。吉井川は、全長一〇七〇メートルのいわゆる普通河川であり、平作川の支流である。吉井川は、その流域のほぼ全部が上告人らの居住する地域に含まれ、平作川下流左岸をこれに沿って流れ、平作川との合流点においては満潮の影響を受け、また、その流水の流下能力は排水先である平作川の流下能力の制約を受ける。吉井川の流域は、入り江を干拓してできた水田地帯であったが、昭和四〇年代から急激に宅地開発が進み、人家、人口が増加すると共に、山林、農地の減少により土地の保水機能が減退し、川幅も狭くなり、これに伴い、吉井川からのいっ水による水害発生の可能性が高まり、現実の水害被害も増加した。また、吉井川の機能の中心は、流域の水田のかんがいから汚水雨水の排除へと変わっていった。本件水害当時の吉井川の形状は、不規則で、幅員も所によって広狭にかなりの差があり、こう配はほとんどない。

(二)  吉井川は、昭和三三年の狩野川台風及び同三六年の集中豪雨の際に平作川と共にいっ水して吉井川流域に大きな被害をもたらした。また、同三八年、同四〇年、同四一年にもいっ水した(被害の程度は不明)ほか、急激な宅地開発が進んだ後の同四五年から同四七年にかけては毎年いっ水して、床上浸水被害(同四五年は一一戸、同四六年は九戸、同四七年は六戸)を出した。

(三)  昭和三五年当時、横須賀市内において、慢性的に出水する地区は二十数箇所にのぼっており、同三八年、同四〇年、同四一年、同四五年、同四六年には、鷹取川流域の追浜地区など、横須賀市内の他の地域でも、いっ水による浸水被害が生じていた。

横須賀市議会においては、上告人ら居住地域及び追浜地区などの水害被害についての対策が、繰り返し討議されていた。

(四)  被上告人横須賀市は、遅くとも昭和三〇年代に吉井川の管理を開始した後、同三五年に水門の整備、改良工事を、同四二年、四三年に清掃工事(河道内のごみや雑草を取り除くこと)を、同四四年に護岸石積工事(費用総額四四五万円)を、同四五年から同四八年にかけて毎年しゅんせつ工事等(費用総額五二九万三〇〇〇円)を行ってきた。

同被上告人は、昭和四三年ころからは、上告人ら居住地域を含む久里浜地区一帯については、平作川の河床が高いため、内水排除のためのポンプ場建設が必要であると認識していたが、財政的負担が大きいことから、その実行には至らなかった。

このように、同被上告人は、吉井川については、河道を積極的に拡張したり、堤防を築いたりするなどの本格的な改修工事を行わず、改修計画も定めていなかった。

(五)  被上告人横須賀市は、昭和三二年に、市の中心部である上町排水区329.19ヘクタールから公共下水道整備事業を開始したが、その本格的な実行は受益者負担金制度が創設された同三八年ころからであった。右公共下水道整備事業の計画区域は、同三九年、同四三年と順次隣接区域に拡大され、同四七年には、上告人ら居住地域を含む市のほぼ全域を対象とし、雨水排除と汚水処理を目的とする下水道整備計画が立案され、右計画は、同四八年三月三一日に建設大臣の認可を受けた。

右下水道整備計画においては、吉井川は、下町処理区久里浜第一地区舟倉排水区の雨水第二幹線とされているが、本件水害当時においては未整備で、いまだ公共下水道としての性質を有するものではなく、供用開始の公示もされていなかった。

右下水道整備計画は、雨水排除の観点からは、時間雨量六〇ミリメートルを基準とするものであるが、この基準降雨量は神奈川県内においては横浜市と並ぶ高い基準であり、多雨地域である四国、九州地方を除けば、全国的にも高い水準にある。また、横須賀市の下水道整備率は、全国の一般都市の整備率と比べて、特に劣るものではなかった。

同被上告人は、右下水道整備計画に基づき、吉井川の排水能力を高めるため、平作川との合流点付近に舟倉ポンプ場の設置を計画し、同四八年一二月から用地買収等を行ってきたが、その完成をみないうちに、同四九年七月の本件水害の発生に至った。

横浜市内の追浜地区は、横浜市に隣接し戦後比較的早く都市化した地域で、人口が多く人口密度も高かったが、鷹取川からのいっ水によりしばしば大きな浸水被害に見舞われていたところ、同被上告人は、昭和四一年から、追浜地区に、前記公共下水道整備とは別に、浸水排除を主要な目的として、都市下水路整備事業を実施した。

(六)  昭和四九年七月七日、横須賀市内は夜半から降雨に見舞われたが、特に同月八日午前二時から同八時までの間に強い降雨があり、同日は日降水量250.5ミリメートル(横浜地方気象台において昭和一五年以降第三位)、最大一時間降水量68.2ミリメートル(午前四時三五分から同五時三五分までの間、同第一位)を記録し、平作川及び吉井川の流域はほぼ全域にわたって浸水した。上告人ら居住地域においては、丙水路が午前四時過ぎ、吉井川が同四時三〇分から同五時ころにかけて、乙水路が同五時三〇分ころ、それぞれいっ水を始め、同五時三〇分ころ甲水路の水が右地域内のマンホールからあふれ出し、これらによって、右地域のうち舟倉地区においては平作川からのいっ水が始まる前に床下浸水(一部床上浸水)の被害が発生した。右地域における平作川左岸からのいっ水は、原判示A点付近において同六時ころから始まり、同七時ころまでの間に同B点付近にまで及び、右A点とB点との間(原判示AB間)からのいっ水は、同日の午前一一時ないし正午ころまで続いた。これらによって、上告人らは、いずれも床上浸水の被害を受けた。

平作川からのいっ水流と吉井川及び甲・乙・丙水路からのいっ水流との合流の具体的状況、程度、その割合、各いっ水流単独でどの程度の被害が生じたかは、証拠上明らかでないが、平作川からのいっ水量が吉井川及び甲・乙・丙水路からのいっ水量をはるかに上回ったと推認できる。

3  原審は、右事実関係の下において、次のとおり、吉井川の管理については瑕疵があると認められるが、右管理についての瑕疵と上告人らが本件水害により被った損害との間には因果関係が認められないと判断した。

(一)  吉井川は、本件水害当時においては、下水道法二条三号ないし五号の定める公共下水道、流域下水道及び都市下水路のいずれにも当たらないが、同条二号の定める下水道に当たり、同時にいわゆる普通河川にも当たる都市排水路であった。

いわゆる普通河川の管理の瑕疵については、直ちに河川法上の河川の管理についての特質や諸制約を踏まえた判断基準が適用されるものとはいえないが、吉井川のように究極的には公共下水道として整備を図らなければならない都市排水路については、右の判断基準に準じて、諸制約の下で施行されてきた下水道整備事業の段階に対応する安全性をもって足りるものとするのが相当であり、既に下水道整備計画が定められ、これに基づいて現に下水道整備事業を施行中のものについては、右計画が、全体として、同種同規模の下水道の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えているかどうかを基準として、格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により右計画の未施行部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期に工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、原則として、管理について瑕疵があるとはいえない。

しかし、下水道整備計画全体としては時期的にやむを得ないものとされても、そのことだけで計画に組み入れられた普通河川たる排水路の安全性確保に瑕疵がないと判断することはできず、当該排水路につき、公共下水道としての整備は先に譲るとしても、なおいっ水防御の観点から都市排水路としての整備を急がなければならなかったかどうかを検討する必要がある。

(二)  本件水害までに順次拡大、変更を加えつつ実施されてきた被上告人横須賀市の下水道整備計画自体には、その目的、内容、策定経過に照らして、特に合理性を欠くとみられるものはない。すなわち、基準降雨量の設定に不合理はなく、既に下水道整備を着手完成した地域からその周辺地域に拡大し順次浸水地帯を解消していくことも合理的であって、計画策定の時期や、実施の時期にも不合理な点はない。

また、市内には慢性的な出水を被る地区が二十数箇所にのぼっていたのであるから、上告人ら居住地域について特に早期に下水道工事をしなければならない理由もなかった。

(三)  しかし、被上告人横須賀市は、吉井川のいっ水防御としては、狩野川台風後の昭和三四年から同四三年までの間はほとんど何らの対策も講じていなかったものと評価せざるを得ず、同四四年に護岸石積工事(費用総額四四五万円)を行った後も、同四五年から同四七年にかけていっ水による浸水被害が生じたにもかかわらず、同四五年から同四八年にかけて毎年しゅんせつ工事等(費用総額五二九万三〇〇〇円)を行うにとどまり、同四四年の護岸石積工事の費用からすると予算上の制約から不可能なものであるとは考えられない護岸石積工事の追加及びパラペットの設置も行わなかった。そうすると、同被上告人は、下水道整備計画に基づく下水道の段階的整備は格別、吉井川からのいっ水による浸水被害の状況に照らして早期にその改修を実施すべきであったのであり、同四五年、同四六年に同被上告人の管理する他の河川ないし下水道において浸水被害が生じた事実を考慮しても、同被上告人による吉井川の改修状況は、同様に浸水被害が生じた同種同規模の水路の改修状況と比較するまでもなく不備であり、その管理に瑕疵があったというべきである。

(四)  本件水害当日、吉井川からのいっ水が平作川からのいっ水より先に始まったことを考慮に入れても、本件水害時における平作川からのいっ水量の膨大な規模に比較すれば吉井川からのいっ水量は問題にならない程度であり、被害住民の一部には内水のみにより床上浸水した者も存するが、吉井川からのいっ水量は、総いっ水量の一部にすぎない内水のさらに一部を占めたにすぎないから、吉井川からのいっ水量のみにより床上浸水した被害者はいないと認められる。したがって、上告人らが被った被害の全部が吉井川の管理についての瑕疵に帰するとして被上告人横須賀市に責任を負わせることはできないし、吉井川からの浸水によって生じた被害を個々具体的に明らかにした資料もないので、右被害の一部について同被上告人に責任を負わせることもできない。

4  しかしながら、吉井川の管理について瑕疵があったとした原審の判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。

(一)  いわゆる普通河川の管理についての瑕疵の有無は、先に判示したとおり、河川管理における諸制約の下での同種同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであるから、原審が、いわゆる普通河川の管理の瑕疵については直ちに河川管理の特質や諸制約を踏まえた判断基準が適用されるものではないとした点及び同種同規模の水路の改修状況と比較するまでもなく吉井川の管理について瑕疵があるとした点には、判断基準及びその適用を誤った違法がある。

また、原審は、昭和四四年に行われた護岸石積工事の費用(総額四四五万円)からするとその後の護岸石積工事の追加及びパラペットの設置が予算上の制約から不可能なものであるとは考えられないのにこれを行わなかったことを理由に、吉井川の管理についての瑕疵を認めるが、同年に実際に行われた護岸石積工事の具体的な内容、規模は不明であり、また、原判決が行うべきであったと指摘する護岸石積工事等に要する費用及びその水害防止についての具体的な効果も不明であって、原判決の右説示のみによっては、河川の管理における前記諸制約を考慮すると、右護岸石積工事等がされなかったことをもって、吉井川が同種同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていなかったということはできない。ちなみに、本件水害後吉井川全域にわたって護岸工事及びパラペットの設置が行われ、また、上告人ら居住地域の排水能力も格段に向上したが、右排水能力の向上が主に舟倉ポンプ場が完成したこと及び排水先である平作川の流下能力が本件水害後の昭和五一年度に創設された激甚災害対策特別緊急事業制度に基づく改修工事により向上したことに起因するものであることは、原審説示からもうかがわれるところである。

なお、吉井川が本件水害当時において下水道法二条二号の定める下水道に当たるものであったか否かは、吉井川の管理についての瑕疵の有無に影響を及ぼさないから、判断の必要がないというべきである。

(二) 被上告人横須賀市は、吉井川からのいっ水による水害を防止するため、抜本的な対策としては、吉井川流域に雨水排除を目的の一つとする公共下水道を整備することとし、既に昭和四三年ころには吉井川流域の上告人ら居住地域を含む久里浜地区一帯におけるポンプ場建設の必要性を認識し、公共下水道整備を市の中心部から順次隣接地域に拡大して、同四八年三月三一日には上告人ら居住地域を対象地域として含み、時間雨量六〇ミリメートルを基準とする下水道整備計画につき、建設大臣の認可を受け、右計画に基づき、吉井川の排水能力を高めるために舟倉ポンプ場の設置を計画し、本件水害前の同年一二月から右ポンプ場の設置のための用地買収等を行ってきたものであり、また、右抜本的な対策とは別の当面の対策としては、水門の整備改良工事、清掃工事及びしゅんせつ工事などを行ってきたものである。そして、吉井川は、こう配がほとんどなく、平作川との合流点においては満潮の影響を受け、その流下能力は排水先である平作川の流下能力の影響を受けるなど、雨水排除のための自然的条件には恵まれない河川であるところ、その流域においては同四〇年代から進んだ急激な宅地開発に伴い山林、農地が減少し、土地の保水機能が減退して、いっ水による水害発生の可能性が増大したというのであるから、河川の管理における諸制約を考慮すると、同被上告人が吉井川について通常予測し得る水害を防止するに足りる安全性を速やかに確保することは困難であったといえること、本件水害以前に吉井川からのいっ水を原因として生じていた水害による被害は、流域の住民の生命に危険を及ぼしたり、家屋流失等の大規模な財産的損害を発生させたりするほどのものではなく、我が国における当時の同種同規模の河川においてしばしば発生していたものと同程度のものと認められること、流域の宅地化によりかんがい用水路から市街地の排水路に変容した吉井川のような普通河川については、本件水害当時の我が国においては、改修計画の策定も、築堤や河道拡張などの本格的な改修工事の実施もされていないのが通常であること、同被上告人が吉井川流域の水害防止対策として公共下水道整備を計画したこと並びに市の中心部及び追浜地区の下水道整備が優先された点を含めて同被上告人による下水道整備計画の策定時期、内容及びその実施状況には不合理な点がないと認められることなどの事情を考慮すると、原審の適法に確定した事実関係の下においては、吉井川は、本件水害当時において、河川の管理における諸制約の下での同種同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていなかったものとはいえないから、その管理について瑕疵があったということはできないというべきである。

5  したがって、本件における被上告人横須賀市に対する請求のうち吉井川の管理についての瑕疵をその原因とする部分は、その余の点につき判断するまでもなく失当であり、論旨のうち、吉井川の管理についての瑕疵と上告人らの損害との間の因果関係の点に関する原審判断を非難する部分は、原判決の結論に影響しない点の違法をいうものに帰し、採用することができない。

三  平作川の管理の瑕疵について

1  河川の管理についての瑕疵の有無は、河川管理における諸制約の下での同種同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであることは、既に説示したとおりである。

2  平作川の管理についての瑕疵に係る上告人らの主張のうちパラペット開口部の点を除く部分は、本件水害発生の時点において、改修計画に基づいて改修中の二級河川である平作川につき、より高度な段階の改修が行われていなかったことを瑕疵の内容として主張するものである。ところで、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が、全体として、過去の水害の発生状況その他諸般の事情を総合的に考慮し、河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして、格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、水害発生の時点においてより高度な段階の改修がいまだ行われていなかったことをもって河川の管理に瑕疵があるとすることはできない(前掲昭和五九年一月二六日第一小法廷判決参照)。そうすると、上告人らの右主張部分に対してこれと同旨の判断基準を適用すべきものとした原審の判断は正当であり、その他右主張部分に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右判断は、所論引用の判例に抵触するものではない。論旨のうち以上の点に関する部分は、違憲をいう点を含め、独自の見解に基づいて原判決の国家賠償法の解釈適用の誤りをいうか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

3  平作川の管理についての瑕疵に係る上告人らの主張のうち、パラペット開口部の点に関する部分は、平作川左岸に設置されていたパラペットには本件水害発生の時点において開口部が三箇所存在するという瑕疵があったというものである。ところで、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川であっても、水害発生の時点において既に設置済みの河川管理施設がその予定する安全性を有していなかったという瑕疵があるか否かを判断するには、右施設設置の時点における技術水準に照らして、右施設が、その予定する規模の洪水における流水の通常の作用から予測される災害の発生を防止するに足りる安全性を備えているかどうかによって判断すべきである。原審の認定するところによれば、昭和三六年の集中豪雨による被災直後に平作川左岸の日の出橋から夫婦橋にかけて設置された上告人ら主張に係る本件パラペットは、平作川の護岸の最上部に立てられた高さ一メートルないし1.8メートルのコンクリート壁で、護岸と一体となって平作川からのいっ水を防止する機能を有するものであるが、原判示C・D・Eの各点は、平作川左岸の河岸部にある漁業用資材小屋への出入り、漁船の荷役、人道橋への通路とする目的のために、コンクリート壁が切れて開口部となっており、通常は開口されたままの状態であるが、平作川の水位が上がり右開口部からいっ水するおそれがある場合にはこれを木製遮断板によって閉鎖することが予定され、右遮断板は被上告人神奈川県の土木事務所及び漁業協同組合に保管されることになっていたが、その現実の保管状態及び運用の実態は明らかでなく、本件水害当時も右開口部が右遮断板によって閉鎖されていた形跡はうかがわれないというのである。そうすると、右主張部分に対して、本件パラペットが、その予定する規模の洪水(右認定事実によれば、パラペットの上端の高さに相当する水位の洪水であることが明らかである。)における流水の通常の作用から予測される災害の発生を防止するに足りる安全性を備えていたか否かについて具体的に検討することなく、右2の判断基準に従い、本件パラペットについて早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由はなく、本件パラペットは社会通念上是認し得る安全性を備えていたとした原審の判断は、是認することができない。しかし、本件水害当時において平作川の水位が本件パラペット開口部の底辺の高さを超えなかったことは原審の適法に確定するところであり、仮に本件パラペットに関して上告人ら主張に係る管理についての瑕疵があったとしても右瑕疵と上告人ら主張に係る本件水害による損害との間に因果関係がないことは明らかであるから、論旨のうち以上の点に関する部分は、原判決の結論に影響しない点の違法をいうものに帰し、採用することができない。

四  その余の水路の管理の瑕疵について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、乙水路及び丙水路の管理について瑕疵があったものということはできず、これと同旨の原審の判断は、正当である。甲水路の管理の瑕疵に関する原審の認定判断も、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができる。以上につき原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官河合伸一 裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官福田博)

上告代理人大倉忠夫、同武下人志、同小林章一、同乾俊彦、同根岸義道の上告理由

第一部 被上告人国および同神奈川県に対する上告理由

第一 原判決は、憲法第一四条一項及び第一七条に違反する。

一 原判決のいう段階的安全基準論は、大東水害判決以降の最高裁判決に依拠している。それは河川の特性として自然公物という概念を設定し、他方、それに対比して人工公物という概念を設定し、最初から瑕疵なきものとして管理を始める人工公物とは、自然公物の管理の瑕疵には異なる基準が必要とするもので、もともと管理の始めにおいて危険を内包する河川は過渡的あるいは段階的安全性で足りるとする。

大東水害最高裁判決は、更に、都市河川の管理についても河川の特質及び諸制約が存在すること自体には異なることがないから、一般的にはひとしく妥当するものというべきであると言い、原判決はこの見解を踏襲したばかりでなく、例え平作川の下流域を人工公物に該当すると考えたとしても河川の特性、管理の限界に関する特徴を具備していると言えるから、通常の河川とは別個の法理を適用すべき理由はない、と断ずる。

二 しかしながら、まず第一に、国家賠償法二条一項の適用に当たり、その解釈として、営造物を人工公物と自然公物に峻別して管理の瑕疵について極端に異なる判断基準を設け、営造物の管理の瑕疵に基づく損害の救済について、河川の流域に居住し、河川の管理の欠陥により水害を受けた被害者に対し、他の営造物管理の瑕疵による被害者に比し極端に不利な差別扱いをすることとなる原判決は、その差別に合理性がなく、法の下の平等を定めた憲法第一四条一項に違反し、かつ国及び公共団体の賠償責任を保障した憲法第一七条に違反する。

1 右差別の根底にあるものは、営造物を自然公物と人工公物に峻別し、河川を自然公物と定義して、国家賠償法の適用に当たり被害救済に差を設定することに合理性がある、との思想である。しかし、この見解は河川管理の本来の性質を誤解したものである。

現代のように科学が進歩し人間社会の文明が発達してくると、例えば、地球の温暖化、あるいはそれを原因とする海面上昇のおそれ等のように、過去においては人工的原因では生じないと考えられていた地球的規模の大気や海洋に起こる変化現象が人工的原因によって生じるのである。要するに、歴史上かつてない規模に産業が発達した現代においては気温上昇のような自然現象さえも人為的なものが原因となっており、人類が生きるためにはその原因物質の発生の規制が必要となってくる。

河川についても人類が住む前から地球に流れ、原始人類は河川を所与の自然としてとらえ、洪水により家を流されないように小高いところに小屋を建てて住んでいたであろう。しかし、人類の共同による経済活動が発達して河川の流れを共同で規制して特定の場所を流れるように誘導するようになって、人は従前は住まなかった低地にも住むようになったのであり、現在の都市住民の大半はそのような低地に住んでいる。人は昔から居住地への雨水浸水の防止を必要としており、それを排水する場所を必要としてきたのであり、水害防止は協力を必要とする共同事業としてきた。したがって河川を管理するということは、たまたま河川の近くに住むようになった人だけではなく水系(山の峰を境にすべての地域はいずれかの河川の水系に含まれる)の流域に住む総ての人の共同の責任であったのであり、現代では国や公共団体の責任となったのである。

国家賠償法が河川を典型的な営造物として例示しているのは河川の近くの人だけの問題ではなく、河川管理の共同責任の思想と裏表一体のものとして、もし水害が発生した場合は共同の責任とする思想の表現である。その意味では河川に関する国家賠償は、国の恩恵とか福祉の観念によるものではなく、相互補償の思想であり、水害こそ無過失責任にふさわしく、かつ財政的措置の困難を理由とする賠償責任の免責を主張できない法理が妥当するのである。

このような観点に立てば、営造物から河川を区別して自然公物とし、自然公物であるが故に、財政上の理由による改修の遅れの場合に河川の近くに住む者だけに損害を負担させるとの原判決の法理は、治水負担の共同責任という河川管理の本来の性質を忘れ、河川管理の基本的思想の誤解の上に成立している。

2 また、原判決は、河川はあくまでも自然公物であって、その特質は改修工事によっても質的に変わらないというが、仮に自然公物という概念を認めたとして、改修によっても河川管理の特質に変化がない、との原判決の見解も誤りである。

まず、管理の対象としての河川をどのようにとらえるかについては、原判決は財政的制約や技術的制約等、管理する行政側の都合から河川の特質を考えている。河川そのものの性質についてはもともと危険を内包するもの、と言うだけである。しかし、管理という視点から河川の性質を考える場合河道だけでなく、その河道に流れ込む一つの系として流域を含めて考えなければならない。流域にある森林も田畑も民家も工場も池も小川も、ありとあらゆるものが、雨が降った時の流量に影響する。したがって国家賠償法二条一項にいう管理の対象としての「河川」は流域全体を視野に入れた総合的なものとして考えるべきである。

そうだとすれば、開発等による流域の土地の状況の変化は、河川管理にとっては単なる所与の外的条件ではなく、河道施設の管理と一体のものとなる。勿論、そこには個人の所有に属する財産があり、それは国や公共団体の意思で左右できない場合もあるが、開発があればそれに見合う改修がある、というように施策に連動性がなければ、河川管理の実効性は確保できない。まして三浦半島のような傾斜地や山地が多く平地の少ない地域では開発の影響は河川に覿面に及ぶ。河川は、改修しても管理の対象としての自然公物性は変わらないのではなく、仮に自然公物論をとるのであれば、流域の森林が開発される等、人工的に変化が加えられ雨水の流出率、流出速度に変化がもたされた時は、管理の対象としての河川の性質が変化する、との認識がなければ、河川管理は実効性を持ちえない。

3 このように、水害について、河川を一般的に自然公物と定義して、道路や他の営造物より厳しい瑕疵判断基準を設定する合理性は存在せず、道路等と異なる瑕疵判断基準を適用した原判決は、河川管理の特質を誤解したものであり、ひいては水害被害者にのみ損害を甘受せしめる結果となるので、法の下の平等を定めた憲法一四条に違反する。また、この見解の下に国家賠償法二条一項の適用を否定した原判決の判断は憲法一七条に違反する。

三 第二に、原判決は、河川管理の瑕疵を検討する当たり、財政的制約を河川改修費用の支出の面からのみ考えているが、前述のように、河川管理の実効性を確保するため流域開発も視野に入れた総合的管理が必要であり、個々の開発が即、流量の増大をもたらすことは明らかであるから、理念的には、開発は即管理費用の増大に結びつくのである。このように開発は河川管理費用を増大させる要因であるから、財政的制約を理由とする改修の遅れによる水害の国家賠償請求を認めないとすれば河川の近くの住民の犠牲において開発業者に利益をもたらす不当な結果となる。

原判決は私有財産制を云々するが、国民の生命財産を保護するための河川管理の公共性にかんがみ、現に河川区域の私有財産の行使に制限を加えており(河川法二六条外)、河川の流化能力を配慮して水域における業者の開発を抑制し、あるいは改修費用を負担させるなどにより水害防止に資することは、開発技術が発達し、開発資本が増加している今日の日本では、公共の福祉を守るため急務となっており、公共の福祉を理由とする私権の制限として適法になし得る。

このような措置の不作為については私権の保護の名の下に目をつぶり、水害被害者のみに負担を強いる結果となる原判決の見解は、法の下の平等を保障した憲法一四条一項に違背する。また、右のような事情を理由の一つとして、国または神奈川県にたいし国家賠償法の適用を否定する原判決の判断は、国または公共団体の賠償責任を規定する憲法一七条に違反する。

第二 原判決には国家賠償法第二条一項の解釈適用を誤った違法がある。

一 国家賠償法第二条一項に関する判例

国家賠償法第二条一項の「営造物の管理の瑕疵」については、昭和五九年一月二六日の最高裁判所第一小法廷判決(いわゆる大東水害判決)の前に、昭和三七年九月四日の第三小法廷判決や昭和四五年八月二〇日の第一小法廷判決がある。後者の二判例はいずれも道路の管理の瑕疵に関するものであるが、昭和三七年判決の事案は、道路管理者の道路占有許可を受けることなく二級国道において暗渠新設工事を実施した業者が通行可能部分にはみ出るように枕木を置くなどして危険な状態にあったが、現場には照明もないため暗く障害物等の識別困難な状況下で、原動機付自転車に乗った通行人が枕木に激突し死亡するに至ったものであり、昭和四五年判決の事案は、一級国道に直径一メートルの岩石が折から通行中の貨物自動車の助手席の上部に落下し助手が死亡した、というものである。

この二判例とも道路管理者の賠償責任を認めており、昭和三七年判決は「管理者があらかじめ違法工事を中止させて国道を原状に回復させ、これを常時安全良好な状態において維持しなかった限り……管理に瑕疵があった」と判示し、昭和四五年判決は落石注意の標識を立てるなどして通行車に注意を促しただけでは足りず「道路の防護棚または防護覆を設置し、危険な山側に金網を張り、あるいは、常時山地斜面部分を調査して、落下しそうな岩石を除去し、崩土のおそれに対しては事前に通行止めをするなどの措置を取らなかったときは……その管理に瑕疵があった」という。

この二判例はいずれも、国家賠償法二条一項の賠償責任を認めるには管理者の過失を要しない、と判断したものであり、特に昭和四五年の判決は「国家賠償法二条一項の営造物の設置または管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいい、これに基づく国および公共団体の賠償責任については、その過失の存在を必要としないと解するを相当とする」と明確に判示している。

この二判例は、道路だけでなく、営造物一般について言及したものであり、営造物の管理の瑕疵につき客観説をとることを鮮明にしている。この判例は学会の通説にも符合するものであった。なお、財政的負担にも言及し「本件道路に防護柵等の施設を設置するには相当多額の費用を要し、県として、その予算措置に窮するであろうことは容易に察せられるが、それだからといって、道路の管理によって生じた損害賠償の責任を免れることができるものではない」とも判示している。

二 先行する判例と大東水害判例の関係

河川の管理の瑕疵の判断基準について、昭和五九年の最高裁第一小法廷のいわゆる大東水害判決は、河川の特殊性を強調して、極めて限定的な「基準」を説示するが、先行する判例の示す国家賠償法二条一項の解釈を変更しないで、これに立脚して立論するものであるから、河川管理の瑕疵につき具体的に判例を適用する場合は、大東水害判決の解釈基準を機械的に適用するのではなく、これに先行する前記二判例の示す一般的判断基準を基礎とするものでなくてはならない。

国家賠償法は河川と道路を営造物の代表的なものとして例示し、営造物責任を営造物の種類によって区別することなく定めているが、これは国または公共団体が管理する営造物によって基本的には区別しないことを立法趣旨とするものであり、判例の適用に当たってはこの立法者の意思を軽視できない。勿論、管理の具体的方法は当該営造物の性質により異なることは論を持たない。従って瑕疵も個別性を持つことは当然であるが、営造物を、自然公物と人工公物に概念的に分けて、河川一般を自然公物として無前提に、かつ機械的に、営造物の管理の瑕疵の判断について例外的適用基準たるべき大東水害判決の基準を適用することは許されない。河川についても管理の方法の違いこそあれ、国家賠償法の適用上、営造物の性質は、基本的に道路と異ならない。この点を忘れて機械的な判断をすると、先行する判例と抵触していることを見落とすことになる。大東水害判決後、この判例に対する下級審判決の対応が機械的適用の傾向に陥ったのは、大東水害判決のみに目を奪われ、先行する判例を見落としたからにほかならない。

三 原判決の営造物の瑕疵に関する解釈の誤りと判例違反

原判決は河川の管理の瑕疵の有無について基本的に一審判決の判断を踏襲しているが、一審判決が「治水事業による河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性」と表現したものを、「治水事業の過程における河川の改修、整備の段階に対応する安全性」と改めている。これは平成二年一二月一三日最高裁第一小法廷の多摩川水害判決の表現を取り入れたもののようであるが、実質的には何が変わったのか分からない。「改修の段階に対応する安全性」という言葉は、「これをもって足りる」と言ってしまえば、安全性の程度は常に改修段階に対応することになり、河川管理者を免責する外なくなる。「これを具備しなければならない」と言うなら、改修段階毎に具体的安全基準が想定され、自然公物から人工公物に変身していく過程において、道路の管理の瑕疵に関する判例の一般的判断基準に近付いていかなければならない。このように、河川の自然状態から人工状態への変遷に着目して、改修の究極において道路の管理と同じになると解してこそ、大東水害判決は先行する最高裁判決の営造物の瑕疵に関する判断基準と抵触しないで存立しうるのである。

原判決は、「改修段階に対応する安全性」を基準とする、と言いつつ、「現在の時点において、河川によっては、さまざまの人為的な措置が採られ人工的な構造を有し、原始河川とは著しくその趣を異にしたものがあるにしても、それはまさしく、河川の安全度を増すための努力がなされた跡にほかならないから、本来的に、洪水等による災害をもたらす危険性を内包するという河川の性格に何らかの影響を及ぼすとは到底解することができない」と言う。

原判決が段階的というのは、具体的な各河川の改修の現段階を言うのではなく、「財政的、技術的、社会的制約のもとで一般に施行されてきた治水事業の過程における河川の改修、整備の段階に対応する安全性」という一般命題をたてて、「現在の時点」すなわち、日本の社会全般あるいは日本の河川行政全般の「現段階」を想定し、具体的河川の改修状況に関わりなく、河川行政の現段階では「河川の管理の瑕疵の有無は過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然条件、土地の利用状況その他の社会条件、改修を必要とする緊急性の有無およびその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性」を基準とすべきだと言っている。このように「河川の改修段階に対応する安全性」という命題は、原判決にとっては修辞以上のものではなく、自然公物論に基礎を置く過渡的安全性論を発展させた用語でもなかったのである。

そのために、原判決は、平作川の具体的な改修段階に対応した安全性の検討は遂に行わず、「仮に、平作川の下流域を人工公物に該当すると考えても、すでに述べた河川の特性、河川管理の限界に関する特徴を具備しているといえる。したがって平作川の下流域につき通常の河川とは別個の法理を適用しなければならない理由はない。」と極めて大雑把に述べて、例え具体的河川が人工公物となっていても適用法理に変わりはない、とまで言い切っている。この解釈は、明らかに大東水害以前の判例に抵触するものであり、営造物の管理に関する判例に違反している。

四 原判決の大東水害判決解釈の誤り

原判決は、基本的には最高裁大東水害判決に依拠している。

しかし、大東水害判決の示す基準が余りにも包括的であり、かつ総合的判断を必要とする内容であるため、その具体適用の場において、下級審をして判例の解釈適用を誤らせ、ひいては国家賠償法二条一項の解釈を誤らせて適用させる結果となった。特に財政的制約及び社会的制約を論ずる上で原判決の誤りは、従前の判例を「河川行政免責論」にしかねない内容を含むものであり、到底承服できない。

1 財政的制約論について

原判決は、河川管理の合理性を判断するに当たり、水害前一〇年間に平作川に使用した費用と、神奈川県知事が管理している河川に投入した総費用とを比較し、或は、神奈川県下の他の同規模河川の総費用と比較する、という手法をとっている。

上告人らは国家賠償法の適用において、河川と道路と区別する理由はない、と考えるものであるが、仮に財政上の制約が瑕疵の判断に影響を及ぼす場合があるとしても、原審のとる手法では国または公共団体が自ら定めた河川予算の範囲で、各河川への配分の当否が検討されるだけで、国または公共団体の河川予算の総額の当否は検討から除外される。

国または公共団体の責任を論じる場合の財政的制約とは、例えば国または公共団体の河川に投ずる予算が少ないために各河川の改修に割り当てられる費用が少なくなる場合をも検討の対象に含まなければならない。そうでなければ、河川管理につき国または公共団体の原則免責論になり、結局は国家賠償法否定の法理となる。我々は従来から、財政的制約論は結局は裁判に政治の当否を持ち込むことになり裁判官に不可能を強いるものと批判してきたが、財政的制約論に立ち河川管理に投ずる費用の合理性を検討する以上は、国または公共団体が河川管理に割り当てた予算の配分の各河川への配分の合理性という狭い命題に安易に逃げ込まないで、国または公共団体の河川予算の合理性にまで踏み込まなければ、財政的制約論は国家賠償法の解釈としては成り立たない。

そもそも国家賠償法における河川管理の責任主体は国または公共団体であって、当該河川行政の主務官庁ではない。主務官庁(例えば建設大臣とか知事)の行政責任を問うのであれば、所与の河川総予算を前提に、配分に不公正なきやを論ずれば足りる。しかし、国家賠償法が国民に保障する賠償責任は、単に河川管理に従事する行政担当者が予算の範囲で公正かつ熱心にやっています、というレベルの問題ではない。このような手法で財政制約を論じるのが判例の趣旨であろうか。もしそうだとすれば、国家賠償法上の責任を、責任主体たる国または公共団体の責任ではなく、行政分担の当該官庁の責任に転嫁することによって、国または公共団体の責任を免れさせる結果となり、国家賠償法の解釈という範疇では到底理解し得ないものとなる。道路の場合と異なって河川には財政制約論が仮に妥当するとしても、原判決のように国または公共団体が配分した河川予算の範囲で、各河川の費用の分配の妥当性を論じるのでは、河川に関しては国家賠償法の存在意味が基本的に失われる。

裁判所は、財政制約論を適用するに当たり、国家賠償法に明示した国または公共団体の国民に対する河川管理の瑕疵による賠償責任を不可能にする解釈をしてはならない。原判決の財政制約論は、仮に大東水害判決の論理に考慮を払っても、国家賠償法の趣旨を誤解したもので違法である。

2 社会的制約論について

原判決は、流域の開発等を考慮して河川の氾濫溢水を防除すべき必要があることは当然、としながら、「それでもなお、河川の危険性を決定的に左右するものが降雨という自然現象であるということは否めず、その意味で、なお、河川の危険性は人為の及び得ないところにあると言わざるを得ない」と言う。また、流域の開発における許認可を国や公共団体が持っているとしても、「私有財産制を建前とするわが国の法制下においては個人の経済的自由権も十分に尊重されなければならないから、水害の防止をも一内容とする公共の福祉との調和が必要であり、開発による雨水の流出機構の変化を許認可権限を有する管理者側だけの事情とすることはできない」と言う。

河川の必要流下能力は流域の開発と深く連動している。流域の状況を把握せずして河川の管理は不可能である。だからこそ、判例も判断基準の一つに「土地の利用状況その他の社会条件」を加えている。

原判決は、河川の危険性を決定的に左右するのが「降雨という自然現象」と言うが、「降雨という自然現象」が危険をもたらすものは河川に限らない。土砂崩れ、陥没等による道路の危険も降雨によってもたらされる場合が多い。地震等の自然現象による場合もある。しかし、危険が降雨という自然現象によって決定的に左右されるから「河川の危険性は人為の及び得ないところにある」と言い切ってしまえば河川管理の責任を論じる余地がない。道路にしても河川にしても、営造物の管理には人工的にもたらされる危険との戦いもあるが、むしろ自然力によってもたらされる危険との戦いである。原判決のように、開発等の社会的要因があっても、河川の危険は降雨が決定的であるから人為が及び得ない、との理論構成をとれば、とりも直さず「河川管理免責論」であって国家賠償法二条一項の解釈としては成り立ち得ない。

また、原判決は、わが国が私有財産制をとっているから、「開発による流出機構の変化を許認可権限を有する管理者側だけの事情とすることはできない」と説示するが、開発により河川への雨水の流出率や流出速度の変化があれば、同じ雨量でも河川の流量の増大をもたらす、言い換えれば降雨が飛躍的に増大したのと同じ結果をもたらすのであるから、開発は「河川の危険性を決定的に左右する」重要な要因である。ところが、この事実に目をつぶって、「(開発は)管理者側だけの事情とすることができない」との表現で逃げるのである。これは、国や公共団体だけの責任ではない、との意味と思われるが、また、一端の責任はある、との意味にも取れる原判決の表現は曖昧であるが、法律上の議論としては過失責任の問題とも取れる。瑕疵論として述べたのであれば、「管理者側だけの事情ではない」ということが、どのような論理で瑕疵の否定の判断につながるのか分からない。原判決は「社会的制約」として検討すべきところを、仮に財政的制約論を取った場合の「財政的制約」の検討に妥当する「管理者側の事情」と言う概念を持ち込み、実質的には「社会的制約」の範疇で、管理者の過失を問題とするものであり、これは国家賠償法二条一項の過失を要しない、とした判例に違反している。

しかも右のような判断のしかたは、「土地の利用状況その他の社会的条件」を、具体的検討を加えずに回避し安易に考慮の外に追いやるもので、これを瑕疵の判断基準の一つとした大東水害判決にも違背している。

のみならず、証拠によれば、平作川流域の昭和三六年頃から四八年頃までの0.3ヘクタール以上の開発の合計約三七〇ヘクタールの内、約一八〇ヘクタールは横須賀市開発公社の開発事業であった(甲第一九号証の一四頁以下)。横須賀市が私有財産を入手して開発したものであり、私有財産保護の法理とは関係なく、行政政策として行われた開発である。原判決はこの事実を見落として、安易に一般論で切り抜けようとしている。私有財産の保護の見地から水害防止の公共性との調和を論じ、管理者側だけの事情ではないと断じたのは誤認に基づく評価であり、この点でも大東水害判決の社会的制約の判断基準を逸脱している。

第三 原判決は以下述べるように審理不尽をおかしておりかつ、採証法則に違反した違法がある。

一 原判決の判断

原判決は、河川の管理についての瑕疵の有無は「過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因被害の性質、降雨状況流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を必要とする緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、……同種・同規模の河川の管理の一般的水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として」判断すべきであるとし、さらに「既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分について改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできない」と判示する(原判決一六七頁)。

二 審理不尽および採証法則違反

1 しかしながら、原判決は「同種・同規模の河川の管理の一般水準」を基準とすべきとしながら、その基準のあいまいさもさることながら、同種同規模とはどの程度、範囲のものまで含めて比較するのかを明らかにしていないにも拘わらず、単に神奈川県内における他の河川の治水投資額とその改修率を比較しただけで、管理状況は格別不合理とは言えないと速断してしまっている(原判決一七九頁一八〇頁)。

まず、「同種・同規模の河川の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性」なる概念が、そもそも司法審査になじむのかが問われなければならないが、原判決がかような概念を一般命題として定立する以上、全国規模での同種・同規模の河川管理の比較をなさなければ、一般水準が何であるのかを導き出すことは出来ない。

にも拘わらず、原判決が、単に神奈川県内の河川に限定し、しかも投資額や改修率(この数値が何を表しているかも明らかでない)を比較しただけでは、とうてい審理を尽くしたとはいえない。

2 また、昭和三九年、同四六年に策定した改修計画についても、平作川の具体的な安全性についての検討は全く行うことなく、安易に、格別不合理とはいえない、と結論づけてしまっている。

そもそも改修計画が合理性ありや否やを判断するためには当該河川の実態ならびに流域の地形的自然的条件、過去の水害状況などを示す具体的な事実およびその資料が不可欠である。

ところで、河川の管理は国および公共団体が独占的にこれを行い、またそれぞれその責務を担っているのであって、管理に必要な一切の資料は被上告人国および神奈川県がこれを独占的に保有している。上告人らは、これまでにも何度となく、管理の合理性等を判断するために不可欠な資料、特に昭和四六年の計画を策定するために行った実態調査報告書すなわち、「河道計画調査報告書」の提出を求め、さらに、平作川改修の具体的内容について明らかにするよう求めてきた。右報告書が提出されれば、平作川の流下能力特に夫婦橋直下の流下能力等がおのずから明らかとなる。しかるに被上告人らは、かたくなに右資料の提出を拒み、かつ管理計画策定の前提となる具体的諸事実および管理の具体的内容、特に改修工事と平作川の安全性との具体的関連性についても、遂に明らかにしなかった。つまり、計画の策定ないし実施の合理性さらに「特段の事由」の有無を判断するために必要不可欠な具体的前提事実および資料は全く明らかにされていないと言わなければならない。

ところが原判決は、かように合理性、「特段の事由」の有無の判断をなすために必要な前提事実およびその資料が欠如しているのに、安易に「計画は格別不合理とは言えない」「特段の事由は認められない」と速断してしまっているのである。

結局、原判決は事実および証拠に基づかずに判断したと云うべく、すなわち審理不尽、採証法則違反をおかしていると云わなければならない。

ここに採証法則違反とは次のとおりである。

第一、そもそも事実の証明は、明確な資料が存在する場合には、それに依るべきが当然であって、あえてその資料を秘匿して他の方法による場合は、何等かの意図があったものと推測するのが通常人の経験則であるから、他の証明手段によった場合の証明結果については、安易に真実と認めたり、格別不合理ではないなどと判断することは、特段の事情のない限り許されないと言うべきである。すなわち、自由心証主義にも一定の制限があると解すべきである。しかるに原判決は、被上告人等があえて前記「河道計画調査報告書」によることなく、他の恣意的な方法によって証明した事実につき、「格別不合理な点はない」等の表現で、被上告人等の証明を安易に肯定している点で、自由心証主義の原則を定めた民事訴訟法第一八五条に違反している。

第二に、その証明の結果が相手方に不利益に作用する場合には、いかなる証明によるかは当事者の自由だとは言えないのであり、この場合には、いわゆる弁論主義の適用も制限されざるを得ない。原判決の認定はすべて河川の瑕疵に関連するものであり、その結果は上告人等の利益・不利益に作用するものである。したがって原判決は、被上告人等が使用した証拠資料にまず疑問を持つべきだったのに、漫然とこれを放置して上告人等に不利に作用するような認定をしたものであるから、弁論主義の原則をはき違えた違法をおかしている。

さらに第三に、その資料が、ある事実を証明すべき者の証明主題にかかわり、かつそれが唯一の証拠方法である場合は、その資料が証明負担者に開示された場合にのみ、事実の証明がないとか、事実が明らかでないと判定できると解すべきである。したがって、かかる証拠資料を被上告人等が所持しているのに、上告人等に与えられず、しかも証明がないとすることは、公平であるべき近代裁判においては到底許されない。すなわち、本件水害当時の流下能力、特に夫婦橋直下の流下能力や吉井川の流下能力、開発による保水能力の低下、河川流量の増大等の自然条件の変化、当時の平作川の河道計画の在り方等、河川管理の瑕疵の判断に必要不可欠な事実が、前記「河道計画調査報告書」に記載されているのに、裁判所が上告人等の文書提出命令の申立を却下しておいて、原判決は上告人等の証明がないとか、明らかでないとして、上告人等敗訴の判決を導き出しているのであるから、証明の道を途絶しておいて、証明がないと非難しているに等しい。証明がないことを以って、その当事者の不利益に判断する以上、少なくとも証明の道を自ら閉ざすことは許されないのであり、自ら閉ざした以上、その者に不利益に判断することも信義則上許されないのである。民事訴訟法第一三九条の解釈につき、唯一の証拠方法はそれが時期に遅れたものでない限り、却下することは許されないとする判例の趣旨もここにある。

以上原判決は、明確な証拠を秘匿した場合の経験則と事実認定の方法、これに関連した弁論主義の適用と制限、証拠採否と信義則や証拠偏在と事実認定の在り方等(これ等を包括して仮に「採証法則」という)、その採証法則の解釈を誤った違法があり、かつ、このことは判決の結果に重大な影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

三 証明責任の分配に関する原判決の誤り

1 原判決は、改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川について「右計画が全体として右見地からみて格別不合理なものと認められないとき」「その後……特段の事由が生じない限り、改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできない」と河川管理の瑕疵について一般論として判示し、さらに改修中である本件平作川の管理について「改修計画は……格別不合理なところはない」「特段の事情も認められない」と平作川の管理瑕疵を否定する判示をした。

2 すなわち、原判決の右判示によれば、「河川管理の一般的水準」これに照らして「改修計画が不合理であること」「特段の事由が存したこと」等の事実につき、その挙証責任は上告人側にあるとしているようである。

そうだとすれば、国家賠償法二条一項の解釈にあたり、右のような事実について被災者である上告人らにその挙証の責任を負わせることは、挙証責任の基礎にある当事者の公平、平均的正義に反することになる。

けだし、河川を管理できるのは国または公共団体のみであり、管理に必要な一切の資料はすべて国または公共団体がこれを所持しており、国民は河川の安全性確保を期待して国または公共団体にその管理を信託しているのであるから、その管理者に河川の管理の正当性や不可抗力等を証明することの方が、被害者において管理上の落度を証明するよりは容易であることは明らかだからである。

右のとおり原判決は、立証責任を不当に上告人らに負担せしめたものであるから、証明責任の分配に関する解釈を誤った違法がある。

第二部 被上告人横須賀市に対する上告理由

第一 乙・丙水路の瑕疵について

一 いわゆる普通河川たる下水道概念と判例違反

原判決は、吉井川及び乙・丙水路のように、主として市街地における下水を排除する機能を果している普通河川たる下水道であって、究極的には公共下水道として整備を図らなければならないものについては、河川法上の河川に準じて段階的安全基準を適用するのが相当である、という。

しかし、大東水害判決は国家賠償法の営造物の管理の瑕疵を検討するに当たり河川の管理の特性に着目して河川の瑕疵に関する例外的な判断基準を設定したものであり、これは限定的に解することが必要である。

国や公共団体が営造物を管理する場合、具体的に管理に当たる行政当局が財政的な制約や技術的制約を受けるのは当然である。国家賠償法二条一項はそのような制約が存在しても営造物の設置管理に瑕疵があれば、国または公共団体は被害を受けた国民に対し損害賠償の責任を負う、としているのであり、これは、憲法一七条に基礎を置き、その根底には損害の負担の公平の法理がある。そこに営造物の管理の瑕疵については過失を要しないとの、判例の解釈の根拠がある。

下水道の管理は都市における雨水だけではなく汚水の排除をも目的としておりその管理の方法や責任の度合は河川と同一に論じ得るものではない。

被上告人横須賀市が下水道として管理する排水路に、普通河川たる概念を当てはめて、河川に準じて段階的安全基準を適用するとして乙・丙水路の瑕疵の存在を否定した原判決の解釈は、国家賠償法二条一項に関する判例を逸脱して、同法の解釈を誤ったものである。

二 法令の解釈・適用の誤り

吉井川および乙・丙水路が原判決の判示するように普通河川たる下水道に該当するとしても、原判決には以下のとおり瑕疵に関する法令の解釈・適用の誤りがある。

1 乙水路の瑕疵について

(一) 原判決は、吉井川については下水道および普通河川としての性格を有しているとの前提のうえで管理の瑕疵の存在を認めながら、吉井川同様下水道および普通河川の性格を有しているとした乙水路については瑕疵の存在を否定している。

原判決が乙水路について瑕疵の存在を否定する理由は、要約すると左記のとおりである。

(1) 乙水路について、被上告人横須賀市が管理するようになってから、どのように管理していたかについてはなんら主張・立証がない。そして、昭和四八年までに乙水路の管理に関し何らかの工事がなされたことについても何らの主張・立証はない。

(2) 乙水路に関連して種々の問題があり、特に昭和三五年六月八日には、京浜急行久里浜工場の造成に関連して、地元住民から乙水路の下流部における放流経路に関する要望が出され、結局この要望は入れられることにならなかったが、当時における乙水路の段階的安全性確保のために住民の要望に沿う措置を採ることが必要であったのかどうかについては、これを明確にする資料はない。

(3) しかも、昭和四八年までに乙水路の溢水によって浸水被害を生じた証拠もない。

もっとも、原告古谷正利は、昭和四七年七月と昭和四八年一一月に浸水被害を受け、その原因は下水道の不備、乙水路の未整備にあるとしているが、そこで指摘される乙水路の溢水、下水道の未整備が何を意味するか明らかではない。

また、D地区に居住していた第一審原告らは、昭和四八年一一月に浸水被害があり、その原因は下水道の未整備、不完全にあると指摘しているが、その指摘する下水道の未整備、不完全が何を意味するかを明確にする資料がない。

かえって、前記第一審原告らの居住する地域は他に比較して低い窪地上の土地であり、降雨の場合右地内の道路を流れる雨水が道路等によって堰止められて溜池状態になることが認められるから、第一審原告らの排水設備の不備を指摘するに帰することが明らかである。

したがって、乙水路については、早期にその改修を実施すべき必要があったということはできない。

(二) しかし、原判決には次のような誤りがある。

(1) 第一に、原判決は、一方で吉井川が昭和三五年ころまで「現在の京浜急行久里浜工場敷地内を横切り、大塚古墳遺跡のある山の麓に至った点に源を発し、諸所の潅漑用水路の水流を集め、平作川に流入する形態を備えて」いたこと、乙水路が「昭和三三、三四年ころ、京浜急行久里浜工場が造成される際、その敷地内に縦横に走っていた潅漑用水路に替えて、現在の姿のように右工場を取り巻いたうえ、既存の水路を利用して京浜急行線及び国道一三四号線をくぐり抜け、平作川に流入する流路に付け替えられたものである」ことを認定しながら、他方で吉井川と乙水路が水路として全く別のものであるとして、それぞれの瑕疵の存否を判断するという誤りを犯している。

すなわち、吉井川と乙水路とは、実際には昭和三五年以降もそれぞれの上流部分において連結しているのであって(甲第三〇号証の一一及び同号証の二九参照)、両水路が合して上流部分の雨水・汚水を排除するという機能を果していたのである。

(2) 第二に原判決は、吉井川の管理に関する状況(原判決二四一頁ないし二四五頁参照)に記載された事項が吉井川の瑕疵の存否にのみ関係し、あたかも乙水路の瑕疵の存否に関する判断には関係無いかのように取り扱っているが、これは原判決が前記のとおり吉井川と乙水路が全く別の水路であるという前提に立っているからに外ならず、したがって原判決は結局これらの事項の評価を誤ったものである。

吉井川と乙水路が合して上流部分の雨水・汚水を排除するという機能を果しているという点を正確に見るならば、吉井川流域における浸水被害には乙水路によるところも多く、したがってこれらに関する議論においては当然乙水路に関する議論もまた含まれているというべきである。

(3) 第三に、以上の観点に立ってみるならば、昭和三五年六月八日に行われた地元住民の要望は、乙水路の上流部分(それはとりもなおさず吉井川の上流部分でもある)において浸水被害が多発していたため、とりあえずこの上流部分の雨水・汚水を排除する一方の水路である乙水路の改善を求めたものであるというべきである。

(4) 第四に、前記の観点によるならば、乙水路も吉井川と一体のものとして昭和四八年までにその流域に浸水被害をもたらしていたものであって、原告古谷正利や第一審原告らが指摘する下水道の不備が単なる排水設備の不備を言うに止まらないものであることは明らかであるというべきである。

(5) 第五に、上記にもかかわらず、被上告人横須賀市が乙水路をどのように管理してきたのか、また乙水路の管理に関しどのような工事をしてきたのかについては、原判決指摘のとおり何らの主張・立証がないのであって、このことは被上告人横須賀市が乙水路について適切な管理を怠り、実際には放置してきたものであることを示している。

(6) したがって、被上告人横須賀市としては本件水害地域における吉井川および乙水路の溢水状況に照らして、早期に乙水路の改修を実施すべきであったというべきところ、実際には放置してきたのであるから、他と同様に溢水被害を生じた同種同規模の水路での改修状況と比較するまでもなく、乙水路の管理には瑕疵があるというべきである。

(三) 以上のとおりであるから、乙水路の管理に瑕疵がないとする原判決は、瑕疵に関する法令の解釈・適用を誤ったものであるから破棄を免れない。

2 丙水路の瑕疵について

(一) 原判決は、吉井川については下水道および普通河川の性格を有しているとの前提のうえで管理の瑕疵の存在を認めながら、吉井川同様下水道および普通河川の性格を有しているとした丙水路については瑕疵の存在を否定している。

原判決が丙水路について瑕疵の存在を否定する理由は、要約すると左記のとおりである。

(1) 丙水路について、被上告人横須賀市が管理するようになってから、どのように管理していたかについてはなんら主張・立証がない。そして、昭和四八年までに丙水路の管理に関し何らかの工事がなされたことについても何らの主張・立証はない。

(2) 丙水路に関連して種々の問題があり、特に昭和三五年六月八日には、京浜急行久里浜工場の造成に関連して、地元住民から丙水路の下流部における放流経路に関する要望が出され、結局この要望は入れられることにならなかったが、当時における丙水路の段階的安全性確保のために住民の要望に沿う措置を採ることが必要であったのかどうかについては、これを明確にする資料はない。

(3) しかも、昭和四八年までに丙水路の溢水によって浸水被害を生じた証拠もない。

証人古川隆の証言によれば、昭和四一年九月から昭和四八年までに三、四回にわたって、丙水路が大雨のため横須賀市池田町五丁目四〇番地先において溢水し、道路が冠水したことが認められるが、同証言によっても浸水被害が生じたことを認めることはできない。

したがって、丙水路については、早期にその改修を実施すべき必要があったということはできない。

(二) しかし、原判決には次のような誤りがある。

(1) 第一に、原判決は、丙水路について、昭和四四年に池田団地が造成された際にそれまであった水路(池田川とよばれていた)を利用して、同団地の雨水、汚水を排除するために改修されたものであり、被上告人横須賀市の行政指導により団地造成業者が時間雨量六〇ミリメートルの降雨を基準として設置した水路であると認定したうえ、右の被上告人横須賀市の行政指導にしたがって造成業者が工事を行ったことに関しては「それはまさしく、その安全性を高めるための相当の措置ということができる」として、あたかも丙水路が段階的安全性基準に欠けることがないかのごとく述べている(原判決二〇九頁ないし二一〇頁)。

しかし、丙水路については、原判決も指摘するとおり、既に昭和三五年六月八日地元住民から水害を避けるための措置として不自然に屈曲する丙水路の下流部分を直線化してもらいたい旨の陳情がなされており、しかも被上告人横須賀市は、本件水害事故後結局において前記の地元住民の要望に沿う内容で丙水路について付け替え工事を行っているのである。

したがって、被上告人横須賀市の行政指導により団地造成業者が丙水路の工事を行ったからといって、これにより丙水路が当時における段階的安全性基準に欠けるところがなかったと直ちに判断することは誤りである。

(2) 第二に、丙水路は、原判決も認定するとおり、池田町五丁目四〇番地先から京浜急行電鉄路線敷まで、さらに同所からしばらくの間が開渠であるほかは暗渠となっている(原判決一五六頁)が、右の暗渠から開渠にかわる池田町五丁目四〇番地先において池田町一丁目の方向からこれも暗渠となっている水路が丙水路に合流してくる構造となっている(証人古川隆の証言および甲三三号証の二ないし四)。

したがって、丙水路がそれ自体は時間雨量六〇ミリメートルの降雨を基準として設置されていたとしても、時間雨量六〇ミリメートルの降雨があった際に丙水路の暗渠部分および池田町一丁目からの暗渠の水路を流下してくる流水が、暗渠から開渠になる池田町五丁目四〇番地先において合流しその流勢等によって溢水するであろうことは見易い道理である。

その意味において丙水路には差し迫った危険性が存在したというべきであり、むしろ危険性を招来したというべきである。したがって丙水路は早期に改修を必要としたものである。

(3) 第三に、前記事実にもかかわらず、被上告人横須賀市が丙水路をどのように管理してきたのか、また丙水路の管理に関しどのような工事をしてきたのかについては、原判決指摘のとおり何らの主張・立証がないのであって、このことは被上告人横須賀市が丙水路について適切な管理を怠り、実際には放置してきたものであることを示している。

(4) したがって、被上告人横須賀市としては本件水害地域における丙水路の溢水状況に照らして、早期に改修を実施すべきであったというべきところ、実際には放置してきたのであるから、他の同様に溢水被害を生じた同種同規模の水路での改修状況と比較するまでもなく、丙水路の管理には瑕疵があるというべきである。

(三) 以上のとおりであるから、丙水路の管理に瑕疵がないとする原判決は、瑕疵に関する法令の解釈・適用を誤ったものであるから破棄を免れない。

第二 甲水路の瑕疵について

一 原判決は、甲水路が人工公物たる下水道として取り扱うべきであることを判示するとともに、本件水害事故当時甲水路に設けられた二カ所の人孔から鉄蓋が外れこの部分から流水が噴出したことを認定しながら、結果として甲水路に瑕疵が存在することを否定した。

そして、原判決がその理由としてあげるのは、

1 甲水路について、通常は下水管渠内の流量が流出能力を上回ることを予定されていないから、蓋は本来下水管渠の流水が外部に溢れることを防止する目的のためのものではなく人孔への落下を防止するためのものであると考えられるところ、甲水路の二カ所の人孔から鉄蓋がはずれたのは甲水路に流入した雨水が平作川に圧力排除されることが出来ず甲水路の下水管渠内に極めて大きい水圧が生じたためであると推定されるから、甲水路の人孔の鉄蓋がはずれたことをもって甲水路に瑕疵があったということはできない。

2 甲水路は時間雨量六〇ミリメートルを基準とし右雨量に対処する施設として設置完成されているが、右時間雨量は通常予測される流量として適正なものであるうえ、その施設が右雨量にみあわない規模であったとする証拠はない。

3 甲水路の施設内容と流量を考慮すると、甲水路からの溢水流だけでは、到底本件水害地域における内水の貯留により床上浸水の被害にまで至ったと考えることはできない。

と、いうことである。

二 しかし、原判決には次のような誤りがある。

1 第一に、原判決が指摘する鉄蓋のはずれた二カ所の人孔はいずれも通常の人孔ではなく特殊人孔と呼ばれるものであるが、原判決は特殊人孔の意義に関する認識を誤ったために甲水路の瑕疵に関する判断を誤ったものである。

特殊人孔の特殊性の一つとして、その蓋が人孔内の流水の水圧に耐えられる構造とされており、それゆえその蓋は防水鉄蓋と呼ばれていることがあげられる(被上告人横須賀市の昭和五二年八月一二日付準備書面(二)二項参照)。ここで蓋が人孔内の流水の水圧に耐えられるということの意味は、その蓋が人孔内の流水の水圧をうけても壊れたりはずれたりしないということであることは言を待たない。そして、それゆえにこそ特殊人孔の蓋は、原判決認定のとおり、固定されたアームによって外枠に止められる構造となっているのである。

甲水路の人孔としてこのような特殊人孔が用いられたのは、甲水路が流入水位と吐口水位を利用して設計された暗渠の圧送管であり、しかもそのために平作川の増水の影響を受けることが避けられなかったためであった(被上告人横須賀市の昭和五三年一一月一三日付準備書面九項参照)。

したがって、甲水路は、そもそも平作川の増水の影響を受けることを前提として設計されており、平作川の増水の影響を受けたからといってその途中で管内の流水が管外に溢水することは本来予定されていないのであって、二カ所に設けられた特殊人孔もまた同様であるから、その蓋は単に人孔への落下を防止するに止まらず下水管渠の流水が外部に溢れることを防止する目的をも有していたというべきである。それにもかかわらず、原判決認定のとおり、甲水路の二カ所の特殊人孔の蓋がはずれ流水が噴出したという以上、甲水路は通常備えるべき安全性を有していなかったものである。

2 第二に、上記のとおり甲水路に本来あるべきでない途中における溢水があった以上、仮に甲水路設置の基準となった時間雨量六〇ミリメートルが基準として適正であり、その施設が右雨量にみあう規模であったとしても、甲水路が通常備えるべき安全性を有していなかったことを否定できるものではない。

3 第三に、上記のとおり甲水路が人工公物として通常備えるべき安全性を有していなかった以上、甲水路からの溢水流だけで床上浸水の被害が生じたかいなかは、瑕疵と損害との間の因果関係の問題として検討することはともかくとして、これを瑕疵の存否の判断の基準とすることは瑕疵に関する法令の解釈を誤ったものと言わざるを得ない。

三 結論

以上述べたとおり、原判決の事実認定に従えば甲水路は通常備えるべき安全性を有していないものとして瑕疵ある工作物であると言わざるを得ないにもかかわらず、甲水路について瑕疵の存在を否定した原判決は、瑕疵に関する法令の解釈を誤り、ひいては国家賠償法の適用を誤ったものである。

第三 原判決が否定した設置管理の瑕疵と本件水害事故との因果関係

一 原判決は、吉井川に設置管理の瑕疵が存在することを認定しながら、本件水害事故との因果関係を否定するに至っている。

原判決がその理由としてあげるところは、要約すれば左記のとおりである。

1 本件水害時における平作川の溢水量の膨大な規模に比較すれば、吉井川の溢水量は問題にならない程度であり、吉井川の管理の瑕疵と本件水害事故との間には相当因果関係があるとは認め難い。

2 もっとも、被害住民の一部には、内水のみにより床上浸水したものも存することは否定し得ないが、内水の総量自体が平作川を含めた総溢水量に比較して限られた一部にしか当たらないことは、内水の具体的水量を測定するに足りる資料がないにしても、推認するに難くなく、その内、吉井川の溢水量はさらに限定されるのであり、吉井川の溢水量のみにより床上浸水したと認めることができる被災者は存しない。

3 また、吉井川からの浸水によって上告人らが個々具体的にどの範囲で被害を受けたかを区別し、これを明らかにした資料もないので、結局、右想定される溢水の一部についても直ちに被上告人横須賀市に責任を負わせることもできないし、右のとおり、先の流下水量を考慮すると、その割合は無視し得るほどに極小であることが推認し得る。

二 しかし、原判決の判示には、左記のとおり誤りがある。

1 第一に、損害賠償においては、所与の条件におかれた被害者が加害者の行為により損害を受けるならば、その加害者の行為と被害者の損害との間には相当因果関係があるというべきところ、本件における平作川や他の水路からの溢水流が平作川や他の水路の瑕疵が否定されることにより誰の責任にも帰せられないことになるとすれば、平作川や他の水路からの溢水流は所与の条件の一部にすぎないというべく、この条件の下において吉井川の瑕疵に基づく溢水流により上告人らが損害を受けたとする以上、右瑕疵と損害との間には相当因果関係があるというのが本来の相当因果関係の理論である。

したがって、右にいう所与の条件である平作川の溢水量の規模に比較して吉井川の溢水量が少ないことあるいは吉井川からの溢水が内水の一部であることは、ただちに吉井川の瑕疵と上告人らが受けた損害との間の相当因果関係を否定する理由とはならない。

2 第二に、相当因果関係の立証においては、不法行為(この場合は瑕疵)と損害との間の因果関係が社会通念上あり得べきことであることを立証すれば足り、被害者が右不法行為がなくとも所与の条件において既に損害を受けており従って行為者の不法行為がなくても損害が発生するということは抗弁であるに過ぎない。

本件においては、平作川からの溢水流あるいは吉井川からの浸水を除く内水のみによって浸水被害が生じたということは立証されていないのである。

原判決が、吉井川の瑕疵と本件水害事故との間に相当因果関係があるというためには、あたかも吉井川からの浸水によって上告人らが個々具体的にどの範囲で被害を受けたかを区別しこれを明らかにした資料が必要であるかのごとく述べているのは、本末転倒も甚だしい。

3 結局、本件においては、吉井川の瑕疵がなくても本件水害事故が発生したとの立証がない以上、吉井川の瑕疵と本件水害事故との相当因果関係は認められるべきである。

なお、付言すれば、前記のとおり瑕疵の存するのは吉井川だけでなく他の水路においても同様であったのであるから、なおさらである。

三 以上のとおりであるから、原判決には、相当因果関係に関する法令の解釈・適用を誤った違法があるので、破棄を免れない。

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